1人ではなく2人で参加して欲しいイベント。〜ぼくが11/9のイベントに1,000人でも10,000人でも参加して欲しい理由。



僕はセミナーやイベントを企画する仕事もしているから、その立場からすると、いつだって1人でも多く会場に来て欲しい訳だけど、今回ばかりは、ちょっと違う。1人でなく、2人で。「誰かを誘って」来て欲しいイベントがあります。


そのイベントは、来週11月9日(水)。助けあいジャパンチャリティ・「ソーシャルシフト」斉藤 徹さん &「明日のコミュニケーション」さとなおさん出版記念講演会。もう11/3の朝時点で250名近いエントリーが入っているこのイベントに、僕が「誰かを連れて」参加して欲しいというには、それなりに理由があります。


一番の理由は中身。今回のセミナーの内容、参加者それぞれが各社で、あるいは個人で実践したら、僕は絶対に世の中変わると信じているから。


斉藤さんの「ソーシャルシフト」(11/11発売予定)をゲラ段階で読ませて頂きました。さとなおさんの「明日のコミュニケーション」(10/11発売)を読ませて頂きました。ソーシャル畑の最前線をいくループス斉藤さん。広告にもソーシャルにも明るい元電通さとなおさん。それぞれがタイミングを同じくして出した新著は、単なるソーシャルメディアの活用本ではありません。大袈裟に言っているわけではなく、今の時代の変化を見事に表現してくれている本だと、僕は思っています。


「企業はこれからどうあるべきなのか。」
「企業のコミュニケーションはどう変わっていくのか。」
「企業と個人はどう手をつないでいくのか。」
「いま、ソーシャルメディアの登場で何が変わってきているのか。」
「3.11を通じて何が広告やコミュニケーションの分野を変えたのか。」


そんなヒントが満載。ちょっと大袈裟に言えば、社会を変えるヒントと言ってもいいかもしれません。きっと同じタイミングで出版されたのも(出版社は別々です)、僕は時代の要請だと思っています。単なる個人が学ぶテーマだったら、別に誰かを誘わず、1人で行けばいいと思う。でも、会社を変え、世の中を変えていくには、仲間が必要です。


もし、あなたが「うちの会社ももっとオープンに、社会に喜ばれる会社になれば」と思うのであれば、そんな思いを共有できる同僚と。もし、「あの人、もうちょっとソーシャルメディアの可能性を感じて欲しいなあ」と思うのなら、そんな同僚と。あるいは、一緒に既に何かやっている仲間と「もっと盛り上がりたいね」と思ったら、そんな仲間たちと。2人でとは言わず、みんなで。仲間で、この話を同じタイミングで聞く意味はとっても大きいと思います。この流れや変化には早く触れておいた方がいいです。業種・職種に関係なく。誰かを誘って参加するという行為が、きっと本にも書いてある、関与する生活者、企業を応援する生活者の行動を肌で体感するきっかけにもなると思います。


そして、もう1つ、誰かを誘って参加して欲しい理由があります。このイベントの収益は、この震災をきっかけに立ち上がり、本当にがんばり続けている、一般社団法人助けあいジャパンのチャリティとなります。セミナー参加費は一部決済手数料などを除き、ほぼ全額がチャリティに。


3.11を体験した人みんなが、正しい情報のありがたさを痛感したはず。この助けあいジャパンは、政府の情報も、行政の情報も、NPOの情報も、時にはTVメディアの映像も借りたりしながら、さらにはそこにある温かい思いや復興への熱意まで触れながら、わかりやすく情報収集・発信する「救援情報サイト」を日々更新してくれています。最近では、情報レンジャーという実際に現地に車で入り、巡回して、生の情報を得てそれを発信するという取組みもスタートしました。


新しいですよね?この助けあいの枠組みやノウハウは、きっと、これから残念ながらいつかどこかでまた起きてしまう自然災害の時に、大きく貢献する取組みになると思う。世界の最新事例といっていい、この取組みを支援することは、日本の世界の「あした」につながる。だから、僕は応援したいんです。参加者が増えれば増えるほど、その支援は広がります。

だから、250人ではまだまだ足りないんです。ぼくはワクワクしてます。300人、500人、1000人・・・。こんな動きに乗る人が増えると思うと。それは、世の中を変えていうチャンスだから。


だから、僕ももちろん会場です。内容は保証します。この記事読んで参加して、もし、つまらなかった人がいたら、僕が全額返金しますから。

申込はこちら→ http://peatix.com/event/1802

あなたのウォールは何色ですか?〜Facebookのウォールに見える個性や相性の話


Facebookにあまり馴染みがない人や、Facebookで何を書くかについて迷っている人がいる時、僕は、どこかで聞いた、Facebookが「アメリカの学生寮にある、自分の部屋の前にある掲示板」をベースにしてインターフェイスを作ったという話をすることが多い。


「いつもいつも広告みたいなチラシが貼ってあって、気持ちがいいですか?」「いつもいつも誰かを批判しているコメントが貼ってあって、気持ちがいいですか?」と。まあ、何を書くのかは自由なんだけれど、そこに書かれている内容には「色」があるなあと思う。


僕自身で言うと、ビジネスのことも書くし、どこかに出かけたことも書くし、たまに政治のことも書く。この半年だと、震災のこととか被災地支援のことで一色になることもある。でも総じて言えば、たぶん僕のウォールは、「誰かへの応援」色とか「未来への志向」色が強いと思う。


Facebookに限らず、ソーシャルメディアは自分と近しい人、それは単に所属や住まいが一緒ということだけではなくて、志向が近い人を引き寄せてくれたと思うけれど、多分、近しさを感じるような人って、この「ウォールの色」が似ているんだと思う。


例えば、カッコよさも、人によってタイプによって大分違う。高級車を乗り回して、高級レストランで食事をしてというのがカッコいいと思う人がいれば、思いっきり遊んでいると思えば思いっきりマジメに世の中も語るような人をカッコいいと思う人もいる。同じ写真を紹介しているのに、捉え方がまるで違う時だってあるし、同じニュースにコメントしているのに、まったく意見が違う時だってたくさんある。ビジネス色一色の人もいれば、ソーシャルグッド色一色の人もいて。


もちろん、選択して、自分のウォールの「色」を作っている人もいるとは思うけれど、もうみなさんご承知のとおり、ソーシャルメディアって、隠せない自分の「色」まで出ちゃう存在


色んな人のウォールを読んでいて、「ああ、気持ちがいいなあ」と思う人。自分にひっかかるネタやフィットするネタが多い人。そういう人は、「色」が似ていて、きっととっても近しい人。「色」が違う人との交流ももちろん刺激にはなるけど、一緒にいて心地いいのは、「色」が一緒の人。決して同色じゃなくたって良くて「同系統の色」「相性のいい色合わせ」ってあるなと思う。


これ、チームとか仲間とかにも言える話で、経験的に小さいチームとかグループだったら、「色」が近い方が心地いいと思う。でも、巨大な組織で、みんな同じ「色」というのは逆に気色が悪い。ある程度の規模の組織だったら、色鉛筆の色がたくさんあるのがいいように、違う「色」が揃った方が面白い。


思い一つで自分を違う「色」に染めることもできるけれど、塗ったペンキはやがて剥がれる。できれば、自分の本来持っている「色」である方が、美しい。会社とか社会的な顔をするということは、これにラッピングをするということだ。それは、社会で生きるためには健全かもしれないけれど、不自然なことことということに、気づかなくてはならないだろう。


企業がソーシャルメディアの中に、個人に混じって入ってくる時、「人格」を持つ必要があるというのは、これまでの企業のコミュニケーションでは、そこにデコレートやラッピングがされすぎて、この「色」が分からないからだと思うし、結果、合わない色の人ばかりが集まってくることは、決してハッピーじゃないはず。


色で考えると、とっても分かりやすい。合う色、合わない色、自然な組み合わせというのは絶対にある。らしい色がその人のブランドだし、合う色同士が集まるのが、素敵なつながりこのソーシャルな時代、多様性の時代の中で、「色」は、とっても大事だなと思う。


性格とか個性とかパーソナルブランディングとかいろいろな言い方で言われるけれど、僕が一番しっくりくるのは、この「色」という表現。「色」だと、相性とかとってもイメージしやすいと思います。


「色」。あなたのウォールは何色ですか?
 

自治体が自分たちの生活の中に入ってくる。〜あれから一ヶ月。やっぱり武雄市ホームページのFacebook化は意義深い。


ちょうど1ヶ月前の8月1日、とっても画期的なニュースがあった。


「佐賀県武雄市、市のページをFacebookに完全移行へ」


その発想力と行動力で、僕がこの1年ずっと注目している武雄市。2月に市役所ホームページのコンテンツをFacebookページに流し込んだのも早かったけど、それから半年で、早々に「Facebook完全移行」を実現させた。Facebookを中心にこのニュースは話題になったけれど、1ヶ月経った今、これはただのソーシャルメディア関連のニュースではない、行政やまちづくりのあり方が変わるニュースだったなあと改めて思う。


このニュースを受けて、ネット上には賛否両論、色んな意見が飛び交った。公共サービスを一私企業の無料サービスに置くことの是非。アクセシビリティに欠けるのではという議論。確かに技術的な課題はたくさんあるかもしれない。でも、根強い抵抗感は、まさに今回の取組みが「新しい」証拠だったんだと思う。


樋渡市長は記者会見の中で、市のホームページをFacebook化するメリットは3つあると言った。


・関われること(双方向性)
・スピーディーなこと(即時性)
・透明性があること(透明性、情報公開性)


確かに、Facebookに馴染みのない人はどうするだとか、年配のネットに馴染みがない人には不便でないのかとか、色んな議論があると思う。でも、実はこの3つ、多くの国民(市民)が政治や行政にずっと求め続けてきたポイント3つなんじゃないかと思う。


・もっと市民の声を聞いてくれる行政(市民目線の行政)であったら…
・もっと民間並みにスピード感がある行政だったら…・もっとオープンな行政であったら…


まだ日本に浸透しはじめて間もないFacebookだから、つい抵抗感が沸いてしまう人がいるのも仕方ないけれど、もしそれが、みんなが行政に求め、今まで実現できていなかったことを実現できる施策なのだとしたら、別にFacebookであろうがなかろうが、やらない理由はないと思う。むしろやるべきなんだ。やらない理由は小さいこと。やる理由の方が意義深い。


そして、施行から1ヶ月。僕も傍から、武雄市役所のFacebookページの様子を眺めていたのだけれど、「やっぱり、この取組みはいいな」と思った理由がもう1つある。


それは、市のホームページのFacebook化によって、


自治体が自分たちの生活の中に入ってくる」


ことが実現されたからだ。今まで少し縁遠かった自治体(行政)が限りなく僕らの近くにやってきたと言ってもいいすぎじゃないと思う。


とりわけ、僕がセンスがいいなあと思ったのは、土足で僕らのウォールに入ってこないこと。


↓毎朝、こんなメッセージから武雄市役所の投稿は始まります。

↓職員採用のための動画。動画もうまく使いこなします。

↓議会の定例会見の模様の報告。補正予算案の概要もアップされています。

↓メディアへの掲載記事。こんな時代だから、すぐ掲載(報告)することに意味があります。

↓特産品課係長のレポート記事。市の職員の方がとっても身近に感じられます。

↓市民のコメントに補足説明できるメリットは大きいです。


人によっては、自分が住んでいる自治体のホームページをブックマークしたり、あるいはRSSで登録している人もいるかもしれない。でも、そういう人、本当にごく少数じゃないかと思う。僕個人(地元は東京都豊島区)で言えば、新聞も定期購読していない今、区民だより(市の広報誌)は自宅には届かない。駅やコンビニで手に入れることはできるけれど、気がついた時にしか手に取らないし、区のホームページを見る機会なんて、何か手続きが必要な時に検索する時くらいだから、区の情報に接する機会はほとんどない。


それがFacebookに毎日必ずログインするようになった今、毎日必ず、武雄市の情報に触れるようになった。(地元でも故郷でもないのに。)そして、しばしば、いいね!をクリックし、たまにコメントしたり、シェアしたりする。


武雄市も、「色んな施策に対する市民の声が聞ける」「イベントの告知に有効だ」などとその効果について言っているけれど、引っくるめて言えば、その本質は、自治体との接点が増える」ということじゃないかと思う。上のキャプチャをみても、それは明らかで、「自分の自治体にコミットする敷居が下がった」ことや、自治体のスピードが、一般の生活スピードに追いついてきた」ことを意味すると思う。今まではこれだけスピード感ある情報社会になっているのに、行政のコミュニケーションのタイミングや頻度は、ものすごくスローなものだった。


これって、実は革命的な変化なんじゃないかと思う。もし、地元で同じようにFacebookページがあれば、地元に興味が沸く機会はきっと増えるに違いない。何かイベントに参加しようという機会も増えると思う。そして、分からないことがあればその場で聞けるし、いいね!をしたり、シェアをしたりすることで、市民自身が広報に一役買うこともできるわけだ。


でも、この議論をしていると、きっと次の指摘をする人が現れると思う。


「住民全体からみたらまだまだ、Facebookユーザーは一部。
 対象が一部の人に偏っているのでは?」


でも、あえて、僕は言いたい。それでもトライする価値があるんじゃないかと。確かに、公共という存在は、弱者や全体を意識したものであるべきかもしれない。Facebookを現在使っている人というのは、そういう意味では、イノベーター理論でいう、マジョリティではなく、アーリーアダプターだ。でも、自治体がより早く、よりアクティブな施策を期待するのであれば、もっと将来を見据えたアクションをとることも時に必要なんじゃないかと思う。


Facebookだけが続くとは思わない。でも、ソーシャルメディアが生活の中にもっと入ってくるのは、きっと間違いないだろう。今回、半年でこのアクションができた武雄市は、次に新しいツールの導入が期待された時も、いち早く動けるに違いない。


Facebookに限らず、これからも色んなツールが出てくると思う。そしてそれを導入しようとする度に、きっと言われるんだと思う。「早すぎるんじゃない?」「まだいらないよ」って。インターネットも携帯電話も、古くはパソコンやウォークマン、テレビ、電球だって、そういう過程を経てきたんだと思う。Facebookがずっと主流がどうかは分からない。でも、新しいツールを使いこなし、それを利用している人の中に入っていく姿勢は、行政のみならず企業にも個人にも今後益々問われていくと思う。


アメリカの人気マーケター、セス・ゴーディンは新著『新しい働き方ができる人の時代』で、人間には爬虫類脳というのが強く働いており、これのせいで新しいことを起こすことへの恐怖感が必ずつきまといがち。だからこそ、それに立ち向かい、乗り越えていく人(アーティスト)が今求められていて、そんな人たちがこれからの時代をリードするんだ、というようなことを書いている。きっと、武雄市は、それを行政として実行しているまちなんだと思う。


facebookだって、google+だって、それをどう使うか、それがどう世の中を変えるかが勝負。


武雄市役所Facebookページ化の価値。それは、ただ、Facebookを導入したところにあるんじゃない。Facebookをつかって、市民と行政の関係性を発展させたところあるのだと思う。佐賀県武雄市に注目だ。企業以上に素早いその行動に、今後も注目です。


※写真は武雄市つながる部秘書広報課フェイスブック係のみなさん


p.s.


来週末、9月11日(日)、12日(月)に、日本ツイッター学会/フェイスブック学会総会が武雄市で開催。


昨年8月のツイッタ―学会・設立イベント、今年2月のフェイスブック学会・設立イベントに参加したけれど(その時のレポート「企業より動きが早い自治体、武雄市。2/7、日本初!?の自治体ホームページのFacebook化、日本フェイスブック学会発足。」はこちら
人口5万人の街に、全国から人が集まっている様子はとっても感慨深いし、何かが「変わる」瞬間というのは現場でしか味わえません。


関東から交通費かけて行く価値あり。ご都合つく方はぜひ。行こう、武雄へ。


◎9月11日(日)日本ツイッター学会/フェイスブック学会総会(1日目)
https://www.facebook.com/event.php?eid=250778744942248

◎9月12日(月)日本ツイッター学会/フェイスブック学会総会(2日目)
https://www.facebook.com/event.php?eid=119828304781345

「ボランティア」という言葉を捨てる日。〜僕のボランティアとの付き合い方。仕事との折り合いのつけ方。


東北に行ってから、早いもので10日。自分のハートに問いかければ、すぐにでもあの時の感覚が蘇ってくるけれど、ふとすると、日常に忙殺され始めている自分が、ちょっと怖い。ある意味、自分の中に入ってくる情報に新陳代謝があるのは健全なことだと思うけど、「それで本当にいいのか」と思う。


「被災地の復興に何か力になりたい」という気持ちはまだまだ消えていない。HOPE100(参加費が100%寄付になる震災チャリティセミナーを100本やるプロジェクト)も続ける。被災地へ行くボランティアを増やそうというプロジェクトにもコミットしようとしている。でも、自分の時間を100%それに費やせるかというと、僕の足は止まる。「いや、そんなの当たり前だよ」という人が多いかもしれないけれど、「いてもたってもいられない」状態になる僕にとっては、大問題だ。


「ボランティアって、なんだろう?」


東北に一緒に行った仲間たちも、その多くが抱えていた、この問い。被災地に向かうバスの中で、みんなそれぞれに「ボランティアってなんだろう?」という問いに向き合っていた。僕も一緒だった。


・力持ちなわけでもない自分が行って何の役に立てるのだろうか?
東日本大震災の被災地の人には手を差し伸べて、
 世界で苦しんでいる他の人たちには手を差し伸べないのか?
・本業をおろそかにしてまで、ボランティアに力を注いでいいのだろうか?


震災から5ヶ月、頭の中で「行かない理由」をたくさん考えてきたけれど、身体はそれを許さなかったんだと思う。だから、ボランティアにも行くことにしたし、被災地の様子をこの目で見ることにした。


その行きのバスの中で、一緒に東北合宿に参加した辰濃二郎さんが話してくれた「白血球」の話は、とっても、しっくりとくるものだった。東北合宿という貴重な機会をつくってくれた石川淳哉さんが「白血球なのか?!」というブログ記事で紹介してくれているので、僕も引用させて頂こうと思う。

「みんな、怪我をしたら、かさぶた出来ますよね。あれは、化膿しないようにと白血球がバイキンと一所懸命戦ってくれた結果です。わたしたちが、病気になったり怪我をしたときに必ず、カラダの内部で大量の小さな小さな白血球が束になって活躍する。ご存知の通り、東北は今、いわば大病と大怪我を罹患している状態です。ICUで処置され、大手術も必要ですが、カラダの中の微かな動きもとてもとても重要なんです。法規制や復興予算、重機の活躍ももちろん重要ですが、わたしたち一人一人が現地へ出向いていろいろな問題に小さく小さく対処する事がもっとも大切だと思い、今日このバスに乗っています」


このメッセージを行きのバスでもらい、そして、行ったメンバーみんなが、現地で被災地のその状況をからだ全体で感じながら、そして、ボランティア作業をしながら、「ボランティアて何?」を自分の中に落とし込んでいったんだと思う。


で、改めて、思う。


「ボランティア」というと、「新しく何かをする」というようにも感じるけど、実は、「人が困っていたら助ける」って、もっともっと自然なことなんじゃないかなって。電車の中でお年寄りに席を譲る。重たい荷物を持っているレディーがいたら持つのを手伝う。仕事が終わらないで苦労している同僚がいたら手伝う。悩んでいる仲間がいたら相談に乗る。そんな日常生活でごくごく当たり前にあるシーンでぼくらがやっていることと何ら変わらないんじゃないかって。


「助ける」のは「つらいとき」だけじゃない。誰かが「がんばっているとき」もそう。ハイチ地震の時にチャリティライブを企画して、たくさんの親しいミュージシャンが協力してくれた。今回の震災の時も、たくさんの講師の人たちやボランティアが協力してくれている。僕は別にチャリティに関わらず、そんな協力してくれた彼らが助けを求めている時は応援したいと思うし、彼らががんばっていたら、素直にそれを応援したいと思う。ライブやイベントの案内があれば応援。新しいサービスの案内があれば応援。


「困っている人がいたら助け、頑張っている人がいたら応援する。」


もう、ただそれだけ。「仕事」だってきっと一緒。誰かの悩みを解決するのが仕事だし、誰かがやりたいと思っていることの背中を押すのが仕事だと思う。そう考えれば、日常の生活も仕事も、被災地へ行って力になることも、すべてがつながってくる。


前に「身の回りを幸せにできない男に、世の中なんて幸せにできない」というブログを書いたけど、ボランティアには行くけど、目の前の家族を大切にしない、それはない。ボランティアでは「人の力になっているのを実感できる」けど、仕事ではそれを実感できない、それもない。そこに「お金」が発生するかもしれないし、「お金」が発生しないかもしれない。でも、もうそんなことは大分関係がなくなってきた。「お金」を否定をすることは決してないし、改めて何かをするために、僕は“もっと”稼ぎたいと思う。でも、これだけは言える。「お金」が先にくることはない。


僕らは、「お金」と「やりたいこと」を随分と長い間、天秤にかけてきてしまったのかもしれない。限られた時間。限られた人生。どこにフォーカスし、どこに捧げていくかは大事なテーマだと思う。だとしたら、もう、どっちもとる選択肢、そこにこそ、知恵とか経験を活かしていくべきなんだと思う。だから、僕はもう「ボランティア」という言葉に囚われず、動くことにした。ボランティアって言葉がしっくりこないのであれば、捨てちゃえばいいとさえ思う。


いまこの瞬間も世界中でたくさんの人ががんばっているし、たくさんの人が困っている。それをみんなで解決していけたら、素敵じゃない?


人と人をつないでそういう世界をもっとつくりだしていくこと、それが僕のミッションなんだなと、今改めて強く思う。

きっとお金だけ集まっても復興は進まない。〜初めて実感できた、ボランティアとして被災地に行く意味

被災地を訪れて2日目。陸前高田で従事したボランティア作業は、畑の復旧だった。陸前高田のボランティアセンター経由で訪れたのは、広田半島。当たり一面に広がる、田んぼや畑を瓦礫や泥が覆い、「これが片付かないと何も始まらない。」というの地元の人たちの声を、ボランティアセンターの担当者経由で聞いた。

総勢38名(JTBのガイドさんも本気で手伝ってくれて、39名)が、上の写真の場所を元の畑に戻す作業に取りかかった。ぼくらの手元にある道具はスコップと鎌とバケツ。まさに人力。


ガラスの破片や色んな物が土に混ざっているので、手で掘り返します。


形も隠れていた側溝を掘り返し、泥をかき出して復活させています。
地中にある側溝のコンクリートが崩れるのを見て、津波の破壊力を再認識しました。


ボランティアセンターに道具が潤沢に揃っている訳ではありません。一輪車を家主さんに借りるまでは、ビニールシートで泥をこうやって運んでいました。


こういう時、多くの社会人なら考えると思う。「ショベルカーがあれば一気にできるのに…」「これだけの人がかかって、人件費に換算するとどれだけだろう…」


38人が汗をだらだらかきながら半日を費やしてやっと作業できるスペースなんて、本当に小さい。本当に小さい。

下の写真が、僕らが担当した区画外の写真。まだこれだけのスペースが他にも未着手です。写真の外にもたくさん。人手はまだまだ必要です。


だから、被災地へボランティアに行くと言うと、「行っても何もできないよ」という人が少なくない。「お金をかけていくんだったら、行かないでそれを寄付にまわした方がいいよ」という人だっている。僕もずっと思ってた。決して力持ちでもない自分がそんな作業に従事するより、自分が得意なことで貢献した方がいいだろうって。だから、僕は、震災直後、HOPE100というチャリティセミナーを集結させ、続ける仕組みに取り組んだ。誤解を恐れず言えば、ボランティア作業で力仕事をする意味をあまり見出せていなかった。


はっきり言って、「非効率」だと思う。ビジネスの論理で言えば多分「あり得ない」作業かもしれない。でもね、やってみて、思った。


それでもやる意味がある。


誰かが、お金をポンと出せば簡単に解決する問題かもしれないし、誰か1人のプロに任せれば、ショベルカーで簡単に作業してもらえるかもしれない。はっきり言って、自分たちの力のあまりのちっぽけさが悔しくてたまらない。でも思う。38人が、このボランティア作業に「関わる」ことの意味は大きい。


1人の人しか関わらなければ、1人にしか火はつかない。でも、38人が関わるということは、38人に火がつくということ。参加したメンバーは、みんな口を揃えて言う。「この畑がその後どうなったか、また見に訪れたい。」と。そう。参加したメンバーにとって、陸前高田は、確実に心の中にフックされるんだ。被災地でボランティアするということは、今回の震災を自分ごとにする機会、被災地と自分をつなぐ機会なのかもしれない。そう思うんだ。その火は、それぞれの自宅に持ち帰られ、うまくすれば、家族や友達に連鎖する。新しい復興活動を進める人がいるかもしれないし、頑張るんだと仕事や学業でパワーアップする人もいるかもしれない。


復興に向けて、お金がもっともっと必要だいうのは言うまでもない。でも、きっとお金だけ集まっても復興は進まない。1人1人にできることはあまりに小さいかもしれないけれど、僕は、この「関わる人」の数は、実は復興に向けての大きなファクターなんじゃないかと思う。お金だけで希望は灯せない。「関わる人」はもっともっといていい。ボランティアのマッチングの課題は依然としてあるようだけれど、僕はあえてそれを強く訴えたい。


色んな課題や問題があるのは分かる。時間が経てば、行政かなんかが機械を使って、同じことをやってくれるかもしれない。でも、被災者の立場で考えたら、それを何ヶ月待てるだろう。誰も手伝わずにいたら、畑を復活させようなんて気持ちはとっくに諦めていたかもしれないし、誰も助けにこないことがどれだけ寂しいことかと想像したりもする。


※小さいスペースですが、これだけすっきりになりました。


困っている人がいたら、助けたい。
お金で解決するのもいいけど、困っている人のところへ行って力になりたい。
そんなシンプルな話なんだと思う。


非効率かもしれないけど、手をかけることの大切さ。
希望はそんなところから生まれるのかもしれないと、ボランティア作業をしながら思った。


それとね、いろいろ書いたけど、不謹慎と言われるのを覚悟であえて言うけれど、みんなで1つになって作業をするって、とっても気持ちがいい。これも僕らが少し忘れがちなこと。


津波がいとも簡単に運んできた大きな石。1人ではびくともしないけど、男3人が力を合わせれば動く。


資本経済から共感経済へ。
お金には変えられない関係性は、これからの時代のテーマでもあると思う。


お金?もちろん大事だよね。でも、僕らはもっと大事なものがあることを忘れちゃいけない。


photo by Ken Mckay Waragai(一部、中島撮影)


p.s.

復興活動にビジネスの視点を取り入れること、効率化、仕組み化を進めたりすること、もちろん重要です。個人が関わること、国・行政・NPO・中間団体の取組み、すべてが進むことが必要なんだと思っています。

被災地の状況は想像の域を遥かに越えている。〜被災地支援だけでなく被災地理解にも時間をかける大切さ。

昨日まで3日間、東北の被災地(石巻陸前高田気仙沼、南三陸東松島)をまわってきた。1日ずっとこの3日間のことを振り返っていたんだけど、なかなか言葉にならない。こんなに1記事に時間をかけているのは初めてかもしれない。1度では無理そうだから何回かに分けて、「感じたこと」を書いていこうと思う。


被災地を訪れたことがある人にあうと、必ず言われることがある。
「機会があったら、ぜひ一度被災地へ行った方がいい。」


機会を逸して行けずにはいたけど、もともと現場重視な性格なので、やっぱりそうかと思って、聞いていた。やっぱり、「行かないと分からない」んだと。メディアで報じられていることはほんの一部だし、誇張されている。だから、現場を見た方がいいんだと。でもそれは、逆に言うと、「行けば、分からなかったことが(すべて)分かる」ということだった。甘かった。はっきり言って、被災地の状況は、僕の想像を遥かに越えていた。


・瓦礫は片付けが進み(それでも被災地全体でやっと5割が片付いている程度)
・夏になって生えてきた緑が悲惨さを覆い
・復興に向けて再開するお店も増え


3月に見る光景と、今8月に見る光景では、だいぶ違うことは想像がつくけれど、それでも、被災地の惨状は凄まじかった。以前に訪れた人に聞くと、「まだ、これでも良くなった。」と言う。


現地の人やガイドの人から説明を受けながら各地をまわったのだけど、



陸前高田市・一本松:ここに7万本の松がかつてあり、それが1本を残してすべて流されたということや、毎年賑わってた海水浴場がここにあったなんて、信じられなかった。[2011.8.20撮影]



南三陸町・防災庁舎:ここの屋上まで津波が襲ったこと。その高さで一面を津波の壁が飲みこんでいったということなんて、信じられなかった。[2011.8.21撮影]



仙台市若林区東北自動車道:高速から見たこの光景の中にたくさんの車が流されていたことなんて、信じられなかった。[2011.8.21撮影]


残念ながら、僕には到底理解し尽くすことができなかった。それだけ、震災の被害は想像の域を越えていた。


物理的な被害だけではない。そこには長い間育くまれてきたコミュニティや文化や歴史もあったし、大事な家族や友人の尊い命。そこで、いろんなものが流され、壊された。それも一瞬にして。


被災地に訪れ、立ち尽くしたり、言葉を失ったのは、一度や二度じゃなかった。
「毎日そこで暮らす人たちは、どんな想いだろう…。」なんて考えると、つらくて仕方がなかった。


訪問3日目に、ようやく気がついたことがある。


自分は、被災地のこの状況を、すぐに、そして簡単に理解しようとしすぎているんじゃないかと。きっと、今回の震災、そして被災地の現状は、そんなに簡単に理解し、そして表現できるスケールのものではないんだ。文章でも、写真でも、動画でも表現しきれない。被災地に訪れた人が口を揃えていう、「被災地へは一度行った方がいい」という言葉の深い意味が、そこにあると思う。


僕は、8月16日、この記事の前に、「戦争も震災も終わっていない。この時代に生きている僕らの責務」という記事を書いた。実は、その時も、この震災は、簡単には片付けてはいけないというようなことを書いているんだけど、被災地に行き、それを改めて痛感した。


僕らは、「被災地支援」を継続的にしていくのと同じように、「被災地理解」も継続的にしていかなければならないのだろうと思う。継続的に、そして、多面的に。ロジカルにもエモーショナルにも。ある意味、インスタント(即席)でない情報理解や行動のスタンスって、これからの時代のスタイルだと思う。


まだまだ理解し尽くせないけど、行って感じたこと、気づいたことがたくさんある。引き続き、言葉にまとめていきたいと思う。


※一番上の写真は気仙沼・海岸近くの被災状況[2011.8.21撮影]

終戦の日。震災後の初盆。〜戦争も震災も終わっていない。この時代に生きている僕らの責務。

今日は終戦の日。ここ数年、毎年のようにこの時期に思う。そろそろ戦争体験を「生」で聞ける機会は少なくなってきたと。実家に住んでるばあちゃんは95才だから、聞こうと思えば聞けるんだけど、改めて聞く機会ってなかった。いや、避けてきたんだと思う。なんとなく「つらい思いをさせちゃうかなあ」って言い訳して。


先日、サンデーラボという社会人勉強会でお話しさせて頂く機会があって、平松利枝子さんという、小児心理士のキャリアを持つフォトジャーナリストの方とご一緒した。(平松さんのプロフィールはこちら)広島に勤務していた時代があった平松さんが言ってた。


「原爆が落ちてから、66年。
 その悲しみや苦しみはまだ66年かかっても癒えません。」


終戦」というけれど、実は、まだ「終わってない」。僕ら世代にとって、戦争は教科書に載っている「歴史上の出来事」になっているかもしれないけれど、もし、いま、その悲しみが癒えていないんだったら、それは、「僕ら」の問題であり、課題であると思う。同じ時代を生きている人間として。残念ながら、世界中では、未だ戦争がなくならないし、核兵器もなくならない。貧困もなくならない。


平松さんは、続けた。


「原爆の悲しみはまだ癒えていません。
 だとしたら、今回の震災も長く付き合っていく必要があると思うんです。」


「3.11を風化させちゃいけない」と思って、震災チャリティーセミナー【HOPE100】をはじめた僕だけれど、平松さんの話を聞いて、はっとした。数ヶ月で片付く話でないことはもとより、5年〜10年のスパンの話でもない。今回の震災は、半世紀、一世紀にわたって、つきあっていく“ぼくらの”課題なんだと。第二次世界大戦の時と違って、少なくとも、いままさにこの時代を生きている。


戦争から僕らはどれだけのことが学べただろう?
震災から僕らはどれだけのことが学べただろう?


今回の震災は天災ではあるけれど、どう生きるか、どんな世界をつくっていきたいかは、僕らの手の中にあると思う。


3.11に犠牲になられた方々にとっての、初盆。そして、終戦の日。とっても意味のある2011.8.15だなと思う。震災で犠牲になられたみなさんをどんな顔で、どんな想いで僕らは見送るのか。本業のビジネスだって、被災地支援への取組みだってなんだっていい。今日は、僕らには何ができるだろうということをぐっと考えさせられる一日だ。



P.S.


今週末8月21日(日)、昨年に引き続き、『GATE』という映画の自主上映会を友人と企画した。


◎GATE上映会:2011年8月21日(日)18:00〜@梅上山光明寺神谷町駅
http://gate0821.jimdo.com/
※予告編(動画)はこちら


核兵器廃絶に向けてのドキュメンタリー映画ですが、この映画は反戦映画でも戦争の悲惨さを伝える映画でもありません。でも、ぼくらが忘れかけている何かを思い出させてくれる映画だと僕は想っています。つながりの力。想う力。震災後のこういうタイミングだからこそ、より一層観て欲しい映画です。ご都合つく方は、ぜひご来場下さい。